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2012年1月9日月曜日

フィクションを楽しむための自分の論理

フィクション(英語: fiction)とは、架空の物事。広義では真偽が定かでない伝承や推論なども含む。 架空の出来事・人物・舞台を設定しようとする試み。そこで繰り広げられる物語を創作しようとする試み、その成果物である設定、及び出来上がった創作作品のことを指す。
wikipediaより 

 物語を読む上で大切なのは楽しむことです。
 会話文だらけの文章だろうが、心理・情景描写が巧みな文章だろうが、最後に残るのはどちらも”余韻”です。自分の意思でめくるのを止めた本は、自分がこれ以上は見たくないと思ったから。自分の意思でめくるのを止められないのは、自分がこの先も見たいと思ったから。

 私は物語が好きです。ノンフィクションよりもフィクションが好き。
 架空でない物語は、現実という檻からどうしても抜け出せません。『事実は小説よりも奇なり』とは言いますが、私はそうは思いません。架空の世界というのは、あらゆる法則を無視し、人の概念など払拭する力があると思っています。”奇”と思うことがあるとすれば、それは本のように、ページをめくって未来と過去を自由に行き来できないからです。

 架空の世界には日常が存在しませんし、現実がありません。私は現実に絶望しているわけではないですが、物語に現実という付加価値を付けることは好きではありません。だって、現在の確立された物理法則下に置かれたファンタジーなんて、もはやノンフィクションではないじゃないですか。
 『この世界では光より速い物は存在しない』ではなく『この世界では光より速い物が存在してもいい』という考えの方が好きです。

 架空であっても、現実の決まりごと(法則)に収められると、色々と制限がかかってしまう。
 例えば、時間を跳躍する方法は理論では実現が可能とされていますが、現代の技術では実現がほぼ不可能です。でも、現代の技術で不可能だから、架空でもそれが”出来ないこと”となってしまっては、数々の名作が葬られてしまいます。
 それではSFのみならず、小説自体の存在が失われてしまう。現実はつまらない、というより。現実という枷を無くしたいという想いから、物語が生まれたと思います。それが神話ではないかなと。

 最近の批評系で目に付くのが、現実との矛盾点を指摘している部分。私としては、「細けぇこたぁいいだろ」と言いたい。もうそれが結論になるわけですが、仮想の世界設定とかに細かいツッコミを考えるのは好きではない。原作改変だろうが面白ければいい。

 疑問に思うのは、そこを指摘している人って、読んだり見ていたりして疲れないのかなぁという所。そこまで考えながら読むと、国語の勉強している状態と変わらないと思うんだけどなぁ。
 
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